青森市弓道連盟物語

青森市弓道連盟の歴史

 

文責 小笠原誓輝

 

◇はじめに

  青森県における弓道の始まりは不明であるが、津軽藩・南部藩の時代から武道としての弓術は盛んであった。

 「津軽日記」によると江戸から名人を召し抱えたと記されているだけで、明治維新以後県内にその流れは見当たらない。

 それが藩籍奉還とともに一時は勢いが弱まったものの、明治時代半ばから体育的な要素を加え復活・発展の道をたどる。

 これには長い伝統を持つ柔術・剣術・弓術などの武道を一つの組織にまとめた大日本武徳会が創立されたのが大きく影響している。

 明治30年ごろ青森県庁の敷地の中(現在のさくらの百貨店の裏のあたり)に矢場が設けられ、林民蔵・石黒熊三郎・伊藤昇太氏らが中心となって「鞆音会」(ともねかい)が結成されて弓道が再興されたと言われる。

 

梅原徳治範士

 また仙台市出身の梅原徳治氏(東京歯科医学校出範士十段)もこの当時は青森市に歯科医院を開業し、県内各地を廻って弓道愛好者の育成指導に当たったという。

梅原氏によるとこの当時青森県内に、弓を引ける人は一人もいなかったという。

 梅原徳冶氏は明治119月2日仙台市に生まれた。

 明治17年仙台の雪斉派師範・氏家東湖の門に入り、弓を引いたのは6歳の時であった。

 明治35年本多利実師範に師事、明治39年小笠原清道師範、大正6年窪田藤信師範、大正10年から阿波研造範士に師事して本格的な弓道を学んでいる。

 明治30年青森市で歯科医を開業していた兄の稔氏を頼って青森市に移り、その後明治41年八戸市番町で歯科医院を開業、診療のかたわら弓道を指導した。

 指導者としての手腕は抜群で、昭和18年大日本武徳会の錬士の称号を得たのを皮切りに、昭和35年には範士、同45年には九段が認許されその功績が評価された。

 教え子に昭和36年の全日本選手権日本一になった鈴木三成氏がいる。

鈴木三成(後範士十段)氏は、後に全日本弓道連盟会長・国際弓道連盟会長を務めた人である。

 全日本弓道選手権に14回出場し、優勝2回・23回・31回・52回・最高得点賞5回、東北・北海道対抗弓道大会個人優勝6回、全日本弓道京都大会で射道優秀賞5回、国体出場6回、昭和39年東京オリンピック・デモストレーション弓道競技代表。などなど今だ現役の十段範士である。

 梅原徳治範士は 青森県スポーツ賞・青森県褒賞・文部大臣賞・勲五等瑞宝章等を受けた。

 昭和5210月青森県で開催された完全国体(冬季・夏季・秋季)の八戸会場での弓道競技を直前にして、昭和529999歳の天寿を全うした。

 本人が楽しみにしていた、青森県では初めての国体を見ることが出来なかったのはまことに残念であった。

 全日本弓道連盟は、当時東北ではただ一人だけの十段位を追贈した。

 

 青森県庁内の矢場は、その後青森市柳町にある鎌田重兵衛氏の屋敷に移されそこで練習を続けたが、明治43年の青森大火で焼失した。

 弓道関係者が走り回って募金を集め、青森市の善知鳥神社境内に新しい矢場を建設、佐藤信敬氏らが指導にあたった。

 

◇佐藤信敬教士七段

 佐藤信敬教士は明治10年生まれ。仙台医学専門学校を卒業し青森市浦町に外科医院を開業。青森市医師会の幹部であったという。

 大正6~7年頃佐藤信敬教士が仙台の医学専門学校時代師事し、中央の大日本弓道館にいた阿波研造範士は、大日本武徳会日本一の栄誉とともに名声も全国的であった。

 佐藤信敬教士が鞆音会(ともねかい)副会長の時、阿波研造範士を青森市に招聘してその指導を受けた。

 これによって靑森弓道界の気風は一変し、遊戯的な弓術から道を求める弓道へと変わっていった。

 同じ頃隣の函館市でも『道南における弓道の歩み』(佐野史人氏著)によると「大正7年から阿波研造範士が再三来函して弓道指導に当たり、大日本弓道会函館支部を設立し雪荷堂道場に看板を設置した」とある。

 佐藤信敬氏が鞆音会(ともねかい)会長となるにおよびその名は中央にも知られるようになる。

 佐藤信敬教士は昭和3年頃大射道教の有段者の中で教士七段であり、佐藤信敬教士の上は、八段の神永政吉氏(後範士十段)ただ一人であった。

 佐藤信敬教士は温厚で信望のある人格者であったという。

 佐藤信敬教士の創造した言葉に「三相溶結」がある。

 三相とは一 力、二 精神(心)、三 呼吸(息会)の三つを指す。それは会から離れまでの境涯の全部である。「三相を引き締めて進んで行き、合致点を越え結合境を突破してついに溶結境にまで進捗し、無限に延びて行く時には、弓を忘れ、矢を忘れ、天地を忘れ、自己を忘れ総て空に帰し、只的芯のみとなってしまった処に、初めて自然の離境があるのみである。

 合致や結合点で離してはいわゆる離すのであって、不熟の果物をもぎ取るようなものである。我らはこれを射が浅いと云うことにしている。

 この溶結の境涯が深ければ深いほど射が深遠・重厚・雄大となり、快心の射となる。」と云っている。

 大正10年旧制弘前高校に弓道部が開設されると、佐藤信敬教士はただちに同校弓道部の師範に就任し、昭和174月の逝去までその職にあった。

 阿波研造範士は旧制弘前高校弓道部創部の時、名誉師範を引き受けている。

 阿波研造範士とともに大日本弓道館にいた大平善蔵範士が、大正14年に大日本弓道館を離れ新たに大日本射覚院として独立し、青森地方にもその支部が置かれた。

 同じ道場に阿波研造範士の大射道教派と、大平善蔵範士の射覚院派のそれぞれ2枚の看板がかけられ対立混乱することになった。

 同じように隣の函館市でも大正146月射覚院北海道支院函館分院を谷地頭雪荷堂に設立、2枚看板が掲げられ混乱したという。

 

◇阿波研造範士と大平善蔵範士弓道思想の対立

 青森県の弓道界に大きな影響を与えた、阿波研造範士の弓道思想と大平善蔵範士の弓道思想の違いについて考えてみたい。

 

◇阿波研造範士の弓道思想

 櫻井保之助氏の「おおいなる射の道の教」によると  阿波研造範士は 明治1344日宮城県桃生郡河北町横川に佐藤伝左衛門氏の長男として生まれた。

 20歳で石巻市阿波久太郎氏に望まれ、阿波家を継ぐ。雪荷派弓術師範木村辰五郎時隆氏道場に入門。

 いくばくもなく免許皆伝。さらに竹林派弓術師範本多利実に入門。明治44年会津から仙台に来遊の大平善蔵範士と射を競い、4射して順次的の上下左右に的中させたという。

 京都・大日本武徳会全国演武大会に出場し、的中の正確強烈とともに沈着豪放の射風に満場の注目を惹く。この年旧制第二高等学校弓術部師範となる。この頃から弓術を批判して弓道を説く。大正6年大日本武徳会演武大会に於て近的2射、遠的5射、金的、以上全皆中、特選1 等として武徳会総裁宮より短刀一口を授けられ、日本一の栄誉を受ける。

 40歳の時無知即心の射を説く。41歳弓道館八段。東北帝国大学弓道部師範となる。43歳射裡見性を説く。45歳ドイツ人哲学者、東北帝大講師オイゲン・ヘリゲル氏入門。昭和248歳大射道教創設。大日本武徳会範士。大射道教の支部道場は全国97ヶ所、門人14000人余。昭和1431日逝去・60歳。

 阿波研造範士の門からは、神永政吉、安沢平次郎、吉田能安、土屋芳蔵

佐藤信敬、中野慶吉、紺野雅二の高門・直門のほか、オイゲン・ヘリゲル、グステー・ヘリゲル、西条慶四郎、川崎庄五郎、福原郁郎、沼田末吉、高橋英男、鈴木弘之、抗伯軍二、西村千代子、武田豊、佐々木龍藏、橋本与三郎、武田行雄、掘内藤吾、二宮以義、笹野伸昭などの錚々たる射士を輩出している。                                                                        

  阿波研造範士は昭和11年、札幌からNHKのラジオ放送をされているが、その講演「大射道何を射るか」の中で『思想開発と錬丹主義を主にしない者は、弓道教育の冒涜者である。』といいきっている。「弓道とは射によってその道を行う、一番大事な人格の完成を成し遂げる行(ぎょう)である。」と。

 また「弓は養徳の器、観徳の器である。弓によって射を行じ、弓によって徳を養い、徳を見るものであるから、弓道でなく射道というべきものである。」

 「日本の武士道というのも、正しい心、正しい射、つまり倫理的な生活を意味する。弓身一如、一射絶命、射裡見性があってこそ、天地間に自己の存在を建設できる。」などなど。

 阿波研造範士の弓道思想を要約すれば、射は人格完成の最捷径であるとされたこと、そしてそれは弓身一如…一射絶命…射裡見性…射心常住へと思想開発された。

 この中でも一射絶命について特に力説している。「一射によって心と体が最大限の努力により、最大限の対立緊張を経て、古い生命は死に、新しい生命が生まれる。その新しい生命は永遠の生命につながる。そういう射による行(ぎょう)があってこそ、真実の個性が顕われる。真の人格の完成が出来るんだ」と言っている。

 次に射裡見性である。一射絶命―射裡見性の中に儒と佛が包みこまれた。その見性は射裡と言うように射のうちにある。

 その射は、日本古来の弓矢の道、神代以来の弓矢の道、それを自分に承けてその中で人格を完成する。

 したがってそれは、古来の神道に儒教と仏教を一つにしたものにならざるを得なかった。

 最後に射心常住である。射裡見性を自覚して継続する、持続する。それが射心常住であると阿波研造範士は言う。(櫻井保之助―阿波研造先生生誕百年祭記念講演より抜粋)

 

◇大平善蔵範士の弓道思想

 大平善蔵範士は明治7年会津若松一之町の金物問屋、江戸屋の長男として生まれた。戊辰戦争の影響で、会津地方の長引く産業の沈滞に憂いを持った大平善蔵範士は、実業青年会を組織し産業振興を図った。

 大平善蔵範士は幼児から会津藩の弓術師範であった鈴木寿衛氏のもとで日置流道雪派の弓術を修得し、自分の号にも「射佛」や「素弓」とつけるほど弓術に傾倒した。

 明治40年頃には東京の尾州竹林派の本多利実氏に師事し、流派のすべてを会得している。また本多利実氏のもとで弓道の師範で組織する『大日本弓道館』の設立にも尽力した。

 58歳になった大平善蔵範士は、これまで培ってきた事業を息子に譲り、弓道に邁進した。大正12年には「大日本射覚院」を創設して、弓術に禅を加味した弓道の確立に尽くし、大正14年には全国的な武術団体である大日本武徳会から範士の称号を与えられ、名実ともに日本一の弓道師範になった。

 その後大平善蔵範士は朝鮮や中国などにも出かけ、弓道を広めるため奮闘した。

 昭和27年、78歳で亡くなった後、全日本弓道連盟から十段位を追授された。

  (参考大平善治著『会津が生んだ弓道日本一』より)

 大正122月射佛、大平善蔵範士は東京に『大日本射覚院』を創設した。

 阿波研造範士の「一射絶命」の思想を否定し、「死ぬまで離すな」などと教えるのは無茶な話だと非難した。大平善蔵範士は「射禅見性」と言い、阿波研造範士は「射裡見性」と言った。

 一字違いだが内容の違いは大きかった。射禅見性とは射における禅、つまり射という禅の一種での見性と読むよりないのに対して、射裡見性の方は 射のなかでの見性の意味だから、禅とは無関係である

 禅は頓悟とか正覚とか概念内容の不確実な言葉を用いる。

 これらは決して一定の内容を与えることはできない。射は射礼により心と身との統一と融和を求める。

 東洋では自然をとおして自己を見、西洋では自己をとおして自然を見る。

 大平善蔵範士は大正14年に範士となった。

 全国の各地に設けた大日本射覚院支部道場への出張教授と機関誌の発行により、戦時中の弓道界で大いに活躍した。

 戦後の昭和2711月、郷里会津若松市でその生涯を閉じた。

 青森での大平善蔵範士の大日本射覚院支部の新設は、従来の佐藤信敬氏の昌道館と鞆音会(ともねかい)との関係にも影響を及ぼし、佐藤信敬のような温厚な指導者を煩わせる問題となったという。

 こうした中、射覚院に対抗する新しい弓団を阿波研造範士を中心につくるべきだという声が各地で強く叫ばれるようになる。

 函館市の佐久間良光氏は積極進取の人柄で、仙台在任中に阿波研造範士に師事し、函館支部で大射道教を広めつつあった。

 しかし北海道は全般として見るとき、小樽に支部をおいた大平善蔵範士の射覚院系の勢力が大きかったという。

 大正13815日大日本弓道館函館支部発会式が、阿波研造範士出席のもと雪荷堂で挙行され看板を掲げた。

 翌大正14年、大平善蔵範士が起こした射覚院函館支院の看板を、同じ道場に掛けたことから紛糾し、阿波研造範士派の佐久間良光氏らが脱退し、青森と同じように弓道界に混乱を起こしたという。(佐野史人著 道南に於ける弓道の歩みによる)

 大平善蔵範士が阿波研造範士の射の教えを非難して「弓を引くのに死ぬまで頑張れなどと教えるのは無茶な話だ。」といったことは門人の口から阿波研造範士の耳にも入っていた。

 そして大平善蔵範士の射風は誰よりも阿波研造範士が知っていた。

 櫻井保之助氏によると阿波研造範士の遺稿中に年次の不明な一文があるという。

 文中に○○○と伏せているが、射覚院と読めることは明らかだと述べている。

 「○○○の射道教育は口舌技術教育である。一箭窮命の陶冶的人格的鍛錬に欠ける。結局は的中画一になり、人格の陶冶と射は無縁になって射道教育の刷新とはほど遠いものとなる。だから道のため○○○には反抗せざるを得ない。真の射、大乗の射は、一射無発絶対絶命つまり一射絶命でなければならぬ。」と述べ大平善蔵範士に一歩も譲らなかった。

 大平善蔵範士の禅に対して阿波研造範士は禅は心をせめて身をせめない。心と身をせめるのが射道である。そこで禅的な射裡見性から射教へと進まねばならぬと主張した。

 射教は運動、道徳、哲学、宗教を別々にしない。大勇猛進を一箭のうちに霊化させることにより、霊肉の統一を自律的試練でなしとげ、人格の完成をおこなおうとするのが射教である。

 阿波研造範士は弓禅一味も説き、また特に大乗佛教哲理の表現も射道に用いたが、無条件に禅を評価していたわけではなかった。

 これは大平善蔵範士が設立宣言に南天棒を掲げ、射覚院、射佛、三玄三要などの語を用いていることでわかるように、禅への依存は見られてもその批判が見られないのと対照的である

 大平善蔵範士の大日本射覚院の樹立は、これまで大日本弓道館に拠って、ともに弓界の旧弊打破、真の弓道の実現に努力してきた三羽烏の二人が、事実上阿波研造範士と袂を分かったことになった。

 長谷部慶助範士は木村辰五郎道場以来の阿波研造範士の弓友であり、大平善蔵範士も同じ東北出身であった。三人とも弓界革新の同じ道に進み、同じ立場に立ってはいた。

 しかし肝腎かなめのところでは、一歩たりとも譲れないものが阿波研造範士にはあった。

 阿波研造範士がついに到達した、自らの弓道思想の名称は『大射道教』であった。

 大日本射覚院を建てて、かっての大日本弓道館から離れた大平善蔵範士が、阿波研造範士が亡くなると、またもとの大日本弓道館に復帰した。

 「本人の意図はともかく歴史の皮肉も思わせる」と櫻井保之助氏は述べている。

 わが青森県弓道連盟の梅原徳治範士・沼田末吉範士・佐々木龍藏範士などの弓道思想の系統は、皆この尾州竹林派、本多流の流れをくむ阿波研造範士の大射道教である。

 本多流は明治の中頃本多利実翁が、日置流竹林派から出て古来からの射を改め、武道と体育との調和を主眼として、従来の斜面打起しを廃して正面打ち起しとした。

 

◇本多利実翁

 本多利実翁は東京帝国大学、第一高等学校、東京美術学校などの弓道師範であった。翁の高邁な識見と円熟した技術とを敬慕する門人が集まり、その人々は東北に、あるいは九州にあるいは遠く満州に南洋等にその道を伝えて、この正面打ち起しは滔々として全国弓道界を風魔した。

 この正面起しの竹林派を世間では本多流と称える人達も出てきたが、翁自らは決して本多流とは云われなかった。

 大正6年翁の没後、嫡孫利時氏が宗家を継ぎ生弓会を起こすにおよんで始めて利時自身も本多流を称したという。

 本多利実翁は明治中期弓道の最も衰微した時代から、大正時代に入り漸く軌道の隆盛を見るにいたるまでを生き抜いた一代の達人であったという。

 ここで余談だが夏目漱石が明治267月帝国大学を卒業し、大学院入学を許可されて入学後級友に勧められて弓道を習ったという。

 明治・大正期弓界の先覚者であった本多利実翁が、明治25年以後一高・東大で弓道の師範であったことから、夏目漱石は本多利実翁から直接指導をうけたかもしれない。

 明治263月の正岡子規への手紙に「弓の稽古に朝夕余念なく候」と書いた後俳句を書き添えている。

 「弦音にほたりと落る椿かな」「弦音になれて来て鳴く小鳥かな」

   元高校教諭山本孝夫氏(山口県)弓道誌の「漱石と弓」より

 一方本多利実翁の五味七道の離れの教歌に「朝嵐身にはしむなり松風の眼には見えねど音は冷しき」という理想の離れの歌もある。

 昌道館の佐藤信敬教士の後を受けた、沼田末吉範士・佐々木龍藏範士・佐々木利義教士等が青森市をはじめ青森県弓道界を統率してきた。

 

◇沼田末吉範士

 沼田末吉範士は明治237月青森市に生まれ、大正34月明治大学法科予科を終了した。明治415月秋田県大館町において弓道を志す。

 大正8年靑森市で外科医院を開業していた佐藤信敬教士に師事。同時に阿波研造範士の指導を受ける。

 昭和14年大日本武徳会より錬士、昭和28年全日本弓道連盟より教士、昭和31年範士、昭和48年には九段位が認許された。

 沼田末吉範士は昭和213月初代青森県弓道連盟会長となった。

 昭和41年勳五等双光旭日章を授与される。

 昭和55529日天寿を全した。享年90歳。全日本弓道連盟から十段位を追授された。

 大正8年頃分裂していた昌道館とは、ともに善知鳥神社境内の大日本武徳会青森県支部弓道場(阿波派と大平派の二枚看板が掲げられていた)で勢力争いをしていた。これを沼田末吉範士が中心となって一本化工作に奔走し、ついに昭和94月一つにまとめあげた。

 その結果靑森市の弓道界は阿波研造範士の大射道教派に統一され、沼田末吉範士を中心に活動するようになった。

 沼田末吉範士は阿波研造範士の思想の真髄を伝え、青森県下の弓道振興に裨益すること多大であった。

 昭和20728日の青森大空襲で、善知鳥神社境内の弓道場は焼失した。 一方大日本武徳会(戦前の日本において武道の振興・教育・顕彰を目的に活動していた財団法人)は、昭和21119日付けでGHQ(連合国最高司令官総指令部)から強制解散処分を受け、1300余名の同会関係者が公職追放された。

 学校弓道はもちろん一般社会の弓道も、息の根を止められた思いであった。

 しかし中央の弓道関係者の熱心な復活運動が功を奏して、まもなく弓道の再開が認められた。

 昭和22年関係者が協議し日本弓道連盟を結成し、初代会長に宇野要三郎範士が就任した。

 しかし宇野要三郎会長は公職追放になっていたことから、文部省から注意を喚起された。

 そこで日本弓道連盟をいったん解散して、昭和244月全日本弓道連盟という名で結成し直し、改めて宇野要三郎氏が初代会長となった。

 昭和26年にはついに学校弓道の禁止が解除となり、ようやく本来の姿を取り戻すことが出来た。

 

◇宇野要三郎範士

 宇野要三郎範士は青森県の人である。明治11年南津軽郡六郷村上十川(今の黒石市)に生まれた。父は大地主で大正3年貴族院議員に当選している。宇野要三郎範士は明治18年六郷尋常小学校入学、黒石高等小学校、旧制弘前中学校を経て仙台第二高等学校に進み、明治37年京都帝国大学独法科を卒業した。

 卒業と同時に司法界に入り裁判官の道を歩んだ。各地の裁判所の要職を歴任し、昭和9年には大審院刑事部長に就任した。

 神戸に在勤中岡内木範士から日置流紀州竹林派を学び、退職後も弓道の神髄を追求した。

 昭和409月箱根における中央研修会で宇野要三郎範士は次のように語っている。

 「我が日本弓道は建国以来の国技であり、時代の推移変遷により射技射術の上に多少の移り変わりはあるけれども、その根本である理念においては今日に至るまで一貫して変わるところはない。然らばその根本である理念とはなんであるかと云うに、正しき身体の活動と・正しき精神の活動とにより、神人合一の射を顕現することを目的とする人間の修養道である。これを修練することにより不知不識の間に身体の健康と心の安定が得られ、人間としての道に背かない人生を送ることができるという尊い神ながらの教えであり、人の道である。」と。

 宇野要三郎範士の「現代弓道修練の眼目」は弓道教本で弓道人の真っ先に学ぶことである。その中でも「人間完成の必要」は最大の眼目である。

 宇野要三郎範士は十段位を贈られた。

 

◇善知鳥神社弓道場再建

 善知鳥神社境内の弓道場再建のため、沼田末吉範士とともに活躍したのは当時青森警察署長であった工藤六三郎氏であつた。

 沼田末吉範士は当時青森営林局に勤務しており、毎日のように青森署の署長室に立ち寄って戦災で焼失した弓道場の再建を協議したという。

 善知鳥神社弓道場の会員であった盛喜商店社長中西弥平冶氏が、共鳴して弓道場再建の建築材料一切を提供した。

 善知鳥神社柿崎宮司、総代の千葉・吹田・渡辺・和田氏等の承認を得て、沼田末吉範士の住宅も含めた新弓道場が立派に再建された。

 この新しく竣工した弓道場の道場修祓式には、阿波研造範士門下の三大弟子と言われた神永政吉範士・安沢平次郎範士・吉田能安範士が入魂射礼をして東北一の道場だと賞めたという。

 その後昭和22年佐々木龍藏氏がシンガポールの戦地から復員して靑森市で外科医院を開業した。

 佐々木龍藏氏は善知鳥神社の弓道場が、射場と安土と食い違い寸法となっていると指摘して道場は大改築された。

 この善知鳥神社の弓道場はその後20年に亘り、青森県下弓道の中心道場として大会や審査会場に使用されてきたが、時代の変遷によって神社側から弓道場の移転を要望されるに至った。

 

◇旧公会堂の青森市スポーツ会館弓道場

 当時青森市の剣道・柔道も道場敷地探しが行われていたので、この際「青森県営三道館」建設の運動を起こそうとの議が高まった。それぞれの団体の代表者が集まって慎重協議の結果、三道会を組織し剣道会長の三上勇蔵氏を代表に弓道の工藤六三郎氏が理事長となつて、数年に亘って当時の山崎知事に陳情・運動したが実現しなかった。

 そこで方針を転換して当時一部ネブタ制作所に使用されているほか、荒れ放題になっていた、靑森市旧公会堂を開放してもらう案が急速に高まった。

 旧公会堂は大正14年に建築した荘重なゴシック調の建物である。洋風で堅固な鉄筋コンクリート造りの三階建てで、建築費は当時の予算で十万円余と言われる。市の総予算が九十万円弱の時代のことだ。

 戦前大きな催しものはほとんどこの公会堂で開かれていた。青森空襲でも奇跡的に焼け残り、その翌日から青森市役所が引っ越してきた。

 戦後は進駐軍がこれを接収し、青森軍政部、諜報部として使用した。

 昭和27年の返還後は、市役所、市消防本部、海上保安部、検疫所など入れ代わり立ち代わり官公庁が入居した。

 昭和47年青森市の奈良岡末造市長の決断で、数千万の改築費を支出して8つのスポーツ団体をこの中に収容することになった。 

 柔道・剣道・弓道・空手・少林寺拳法などの武道のほか、レスリング・卓球など年間約3万人の市民が利用したという。

 名称は「青森市スポーツ会館」とした。会館の三階は広い吹き抜けの大ホールで、青森市弓道連盟がこの全部を使用することが認められた。

 余談だが旧公会堂時代この三階のホールは昭和2年旧制弘前高校一年生の太宰治が芥川龍之介の講演を聴いた場所である。しかしこの講演から2月後の7月芥川龍之介は自殺した。

 ヘレン・ケラーもここで講演し「快い潮・磯の香りがしますね」と語ったという。〈太宰治ゆかりの地と海辺の散歩道より〉

 この由緒ある大ホールを弓道場らしく改造するためには、多額の自己負担を必要とした。

 佐々木龍藏氏の50万を筆頭に200万円を会員から3年年賦で募った。

 工藤六三郎氏はこのほかに、善知鳥神社側から50万円の移転料を出させる使命をおびてようやく実現させた。

 「明治時代から神社の境内を無料で使用してきて、そのうえで神社側から移転料を出させようとする折衝は私にとっては辛い使命であった」と工藤六三郎氏は語っている。神社側から『工藤さん、神社に寄進する人はたくさんあるが神社から寄付金をもって行く人はあなたが初めてだ』と皮肉られながら心臓を強くして支出させ、これを道場改築費と沼田範士住居移転費に充当した。

 「青森市スポーツ会館」は平成8年の臨海道路拡張工事により取り壊された。

 平成9年「青森市スポーツ会館」跡に建てられた「しあわせプラザ」の建物の前面には、往時を模したゴシック調のデザインがなされ、現在でも旧公会堂の景観を偲ぶことができる。

 この「青森市スポーツ会館弓道場」が取り壊されたことにより、青森市弓道連盟と一緒にこの道場を使用してきた青森県立青森北高等学校弓道部は、練習場所を失い廃部を余儀なくされた。

 

◇青森県営弓道場

 平成3年青森市浪館の青森県営運動公園の中に「青森県営弓道場」が建設された。

 この弓道場の建設は青森県弓道連盟にとっては全く寝耳に水であった。

 青森県洋弓連盟から洋弓場建設の度重なる陳情を受けていた県は、ちょうどその建設費の知事査定中であった。

 席上当時の北村正哉知事が発言して、「ところで洋弓の外に日本の弓道もあるのでないか。その県営の弓道場はあるのか。」と質問した。

 財政課の担当が「青森県にはまだありません。」と答えると北村正哉知事が「それならこの際一緒に造ればいい。」その一言で靑森県営弓道場が出来てしまった。

 おかげで青森市スポーツ会館が取り壊された後、青森市弓道連盟はタイミング良くこの「青森県営弓道場」を使わせていただくことになった。

 

◇青森県武道館

 平成7年北村正哉知事から木村守男知事に代わった。

 新しく知事に就任した木村守男知事は、新しい県立の武道館を弘前市に造ることを公約した。

 この武道館には柔道・剣道・弓道・空手・合気道などの武道をはじめ、電動で上げ下げ出来る相撲場などが入ることになった。青森県弓道連盟はこの際「遠的弓道場」も、武道館に隣接して別に造ることを要望し認められた。

 青森県武道館(青森県立)」は各種武道の錬成の場・大会会場として利用できるとともに、武道以外の各種スポーツや各種文化事業など、多目的に利用出来る施設となった。

 「青森県武道館」は弘前の広く閑静な運動公園の中に、精神修養の場として城下町にふさわしい武道環境を持ち、青森県武道振興の役割を担い、国際的・全国的大会を開催出来る中核武道施設として建設された。         

 弓道場は近的12人立、観客100人固定席、天井が開閉出来る施設である。

 青森県弓道連盟の竹内明夫会長は、当時県教育庁の指導課長であったので、いろいろな弓道場の要求を教育庁のスポーツ健康課を通して注文し、おかげで立派な弓道場ができあがった。これには竹内会長と古川弘前市弓道会会長の功績がまことに大きかった。

 この青森県武道館建設のときから、県立の施設は県が負担して造り、人件費は地元市町村が負担するという方式が取られるようになった。

 当初80億円ぐらいの予算が最終的には120億円ぐらいまで膨らんだ。

 おかげで全国的にも有数の立派な青森県武道館ができあがった。

 青森市にあった県営弓道場は、まだ新しくてもったいなかったが、その場所に「青森県立美術館」を建設することになったため、取り壊わされることになった。

 青森市弓道連盟はまた練習の場を失った。新しい「青森市のスポーツ会館」が出来るまでの数年間、青森県立青森高校の仮設弓道場を生徒と一緒に使用させてもらうことになった。

 青森高校の弓道場は令和28月学校創立130年記念事業として、同窓生から5000万円の寄付を集め新しく建設することがきまっている。

 

◇新青森市スポーツ会館弓道場

 平成141214日長年待望の青森市の新しい「青森市スポーツ会館」が、青森市合浦に約30億円をかけて完成した。

 ゲートボールやアーチェリー等が出来る屋内グランドや柔道・剣道・弓道の武道場、そしてカーリング場(オリンピック公認練習場)ともなる多目的運動場のほか、屋外にはサッカーやラグビーが出来る、天然芝の広場などを備えた「総合スポーツ施設」である。

 弓道場は516平方メートル・近的6人立・観覧席82席、車椅子2席の立派な屋内施設である。

 

◇工藤六三郎教士八段

 工藤六三郎氏は警察の仕事の関係で、大正115月から同15年まで五所川原弓道会に入会。昭和2年以降は警察署勤務ごとにその地区の弓道人とともに修練を積んだ。

 とくに金木警察署勤務のとき、斜陽館の裏手の畑に安土だけの粗末な矢場があり、知事になる前の津島文治氏や金木営林署長などと弓を引いたという。 津島知事はまだ30歳前頃だった。津島知事は教士四段である。知事になってからは青森市の昌道館に時々顔をだして若い人たちを指導したという。

 教士号の称号は国会議員の時いただいたものである。武道振興のため働いてもらうため、武道経験者の国会議員に各武道団体から称号が与えられた。

 工藤六三郎氏は自分の自叙記の中で、八戸警察署長時代本部の上田部長(弓道有段者)の要請で八戸市願栄寺境内の弓道場で、宮城県警察部長抗迫軍二氏(後範士八段・阿波研造門下で元京都府弓道連盟会長)と休日三人で、一日中弓を引いたことがあったと回想している。

 また昭和35年ごろ突然山崎岩男青森県知事から、浜町の自宅に呼び出されたという。山崎知事はマラソン知事と称されたスポーツマンであったが、弓道は無位無段である。

 おそるおそる官舎へ伺うといま夫人とお二人で「自分はこれから弓道の修練をして精神、肉体両面の鍛錬をしたい。ついては弓道を教えてほしい。」とのことであった。工藤六三郎氏は巻藁・弓道道具一切を準備し、道場は住宅隣の物置小屋を改造した。いま婦人は着物と袴を準備した。週一回、朝一時間の練習でめきめき上達したが、やはり多忙のため一年足らずで挫折したという。

 工藤六三郎氏の弓歴は次のとおりである。

 昭和156月弐段、同164月三段、同179月四段、同23年青森市弓道連盟副会長、同238月五段錬士、同25年第5回名古屋国体選手、同26年六段、同29年教士、同40年七段、同42年青森県スポーツ功労賞受賞、同48年勳五等双光旭日章・青森県褒賞受賞、同525月八段

 

◇佐々木龍藏範士

 青森市の弓道を語るときこの人をおいて語ることが出来ない。

 佐々木龍藏範士九段は大正417日青森市本町に生まれ、旧制青森中学校から北海道大学医学部に入学、昭和163月卒業している。

 北海道大学在学中弓道部に入会し、在学中阿波研造範士の審査を承けている。昭和17年から同21年まで陸軍軍医大尉として、応召、復員後青森市浪打病院に勤務し、昭和23年青森市本町に外科医院を開業した。

 昭和24年~52年まで母校である青森高校の学校医として、28年の長きにわたり生徒の保健管理・衛生指導に従事した。昭和224月青森県弓道連盟理事長、昭和39年青森県弓道連盟副会長、昭和504月青森県弓道連盟会長として県内各地の弓道の普及と弓道施設の整備を図った。

 佐々木龍藏範士は自費で中央の斯道の範士先達を、青森に招いて講習会を開き、全国的視野に立って本県弓道界の水準向上に努めた。

 自制心の乏しい青少年が増加しつつあることを憂慮し、物質生活の豊かな社会にこそ、たくましい身体と精神を同時に養う武道教育が重要であることを説いた。そしてとくに高等学校弓道の普及向上に情熱を傾けた。

 昭和41年の青森県で開催された「全国高等学校総合体育大会弓道競技」や昭和52年の「第32回国民体育大会弓道競技」の開催に際しては、それぞれの大会の企画・立案・運営に携わりこれを成功させた。

 佐々木龍藏範士の弟は佐々木利義教士七段で学生時代はともに旧制青森中学弓道部で活躍した。戦後は兄龍藏範士は青森県弓道連盟の会長・弟利義教士は青森県弓道連盟理事長として、共に青森県弓道の普及向上と新制高校の弓道復活に尽力した。

  佐々木龍藏範士の受賞歴

昭和2031日   正七位

昭和20620日  勲六等瑞宝章

昭和45527日  全日本弓道連盟弓道範士

昭和48113日  青森県スポーツ賞(青森県教育長)

昭和52512日  靑森市民表彰(青森市長)

昭和60212日  勲五等瑞宝章(追授)

昭和60212日  九段(追授)

昭和603月 5日  従六位(特旨をもって一級追授)

 佐々木龍藏範士の弟佐々木利義教士は昭和3910月の東京オリンピック・デモンストレーション弓道競技代表として、八戸市の鈴木三成範士とともに演武した。

 佐々木利義理事長は第32回国民体育大会弓道競技のため、病をおして一年有余に亘り準備指導に専念したが国体を目前として逝去した。

 佐々木龍藏範士は国立弘前大学の弓道部の師範でもあった。

 昭和326月佐々木龍藏範士が主宰して、青森市弓道連盟の對馬教士など有志が研究会をつくってまとめた『射法大意』は、今でも初心者から高段者までのいろいろな研修会で教本として活用されている。

 青森市弓道連盟の会員であった嶋山英三氏は「熱願冷諦 佐々木龍藏先生という人」という冊子の中で、詳しく先生の人間像とエピソードを紹介している。

 

◇對馬健教士八段

 大射道教阿波研造範士門下の佐藤信敬教士をはじめ沼田末吉範士、佐々木龍藏範士などの伝統ある青森の弓道の流れを現在に受け継いで、その継承に努められいる人に對馬健教士八段がいる。

 對馬健教士は大正143月青森市に生まれる。

 昭和124月青森県立青森商業学校弓道部に入部。

 昭和1612月青森県立青森商業学校卒業。

 昭和24年青森市弓道連盟に入会し、沼田末吉範士、佐々木龍藏範士に師事。

 昭和304月青森県弓道連盟理事長。

 昭和3511月第11回全日本弓道選手権大会 3位入賞。

 昭和3911月第15回全日本弓道選手権大会 4位入賞。

 昭和604月青森県弓道連盟副会長。

 平成44月東北弓道連盟連合会理事。

 平成44月青森市弓道連盟会長。

 平成95月全日本弓道連盟評議員。

 昭和63年~平成6年国体各種別で監督として4回入賞(うち2回準優勝)。

 

 受賞歴

 平成81月青森県体育功労賞

 平成141月文部科学大臣表彰(体育功労)

 平成141月青森県体育功労賞

 平成164月旭日双光章(スポーツ振興功労)

 

 對馬健教士八段は青森県弓道連盟の会員では現在最長老の94歳である。

 つい数年前まで道場で会員を指導しながら自らも弓を引いていました。その「会」の姿は立派な体躯に加え、長年の鍛錬・研鑽とたゆみない精進によって鍛えられ、全身全霊を傾注して行ずる一射絶命の射は、これが青森の伝統の弓だという感動を観る者に与えた。

 それは能の世界で云われる「気韻生動」の感を思わせたものである。 

 對馬教士の温容で信望の厚い人柄と相まって、その行射から醸し出される真摯で重厚な雰囲気と、ご自分の弓道哲学からにじみ出る射品射格というか品格を青森県下の弓道人は皆尊敬している。

 「射品高雅・射芸の妙を体得した射」とはまさにこういうのを云うのかと思われた。 

 

◇坂本達雄教士七段「第70回全日本弓道選手権大会」で史上初の連続3回目の「最高得点賞」に輝く

 2019年11月号「月刊弓道」の表紙にその雄姿を飾った青森の坂本達雄教士七段は「第70回全日本弓道選手権大会」の特集記事の中で次のように特記された。

 前略 「令和元年9月21日 略 午後6時過ぎ。およそ9時間の戦いの末決勝へ進む選手が決定。刮目すべきは最高得点賞に輝いた坂本達雄選手(青森)だ。3年連続この頂に立つとはなんという偉業だろう。史上初の3連覇はまさに威風堂々。安定感と重量感のある射に、ただ感嘆するばかりだった。」とある。

 坂本達雄教士七段は令和元年9月三重県伊勢市の神宮弓道場で開かれた「天皇杯全日本弓道選手権大会」で予選(採点制)1位通過選手に贈られる「最高得点賞」を3年連続で受賞した。

 これまでも平成23年9月三重県伊勢市神宮弓道場で開かれた全日本弓道選手権大会で3位、平成25年9月の同大会で4位に輝いている。

 平成29年9月三重県伊勢市神宮弓道場で行われた第68回全日本弓道選手権大会で男子「最高得点賞」を初めて受賞した。

 平成30年9月明治神宮弓道場での第69回全日本弓道選手権大会で連続2回目の「最高得点賞」を獲得した。

 そして令和元年9月史上初の連続3回目の「最高得点賞」に輝いたのである。これはまさに奇跡的偉業である。

 坂本達雄教士七段は平成23年9月の全日本弓道選手権大会で3位となった時、東奥日報「キラリ輝く」の記事の中で、「弓道は人生の縮図、その人の生き方が射格に出る。人生をかけるに足る武道です。」と語っている。

 青森の伝統の射を受け継いでいる期待の星である。

 

                                                                     令和元年1111日記す

 

 参考文献

 阿波研造「大いなる射の道の教」櫻井保之助著

 工藤六三郎著「自叙記」

 昭和461211日東奥日報スポーツ・イン AOMORI

 昭和52530日あおもりスポーツ群像

 道南における弓道の歩み 佐野史人著

 日本弓道の理念 宇野要三郎講義(昭和499月箱根における中央研修会)

  三相溶結 佐藤信敬著(昭和168月病床にて)